善光寺の由来となった本多善光の正体とは?難波の堀江伝説と歴史の真相
「一生に一度は善光寺参り」という言葉で知られ、日本屈指の霊場として年間数百万人もの参詣者を集める信州・長野市の善光寺。その寺号の由来であり、日本最古級の仏像とされる絶対秘仏「一光三尊阿弥陀如来」を信濃の地へ導いた開祖こそが本多善光(ほんだよしみつ)です。
飛鳥時代の推古天皇10年(602年)、大阪の「難波の堀江」に沈められていた仏像を善光が救い出し、遠く離れた信濃国へと背負って帰還したという劇的な開山伝説は、1400年以上の時を超えて語り継がれてきました。2026年現在の歴史学・民俗学の検証や現地調査の知見を交えながら、本多善光という人物の実像、妻の弥生御前や息子の善佐を巻き込んだ奇跡のドラマ、そして長野市の善光寺と飯田市の元善光寺に秘められた歴史の真相を徹底的に解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:善光寺の名称は開祖「本多善光」の名(善光=よしみつ・ぜんこう)を音読みしたことに由来し、皇極天皇の勅願によって創建された。
- 要点2:物部氏によって「難波の堀江」に投棄された絶対秘仏の一光三尊阿弥陀如来を善光が救出し、当初は飯田市(元善光寺)で41年間祀ったのちに長野市へ遷座した。
- 要点3:「本多」姓は中世以降の後付けとされるが、信濃の古代豪族や馬産文化、渡来系集落の流通網が善光寺信仰成立の基盤となった歴史的背景が存在する。
【開山の原点】信州善光寺の由来となった本多善光とは一体何者なのか?
信州善光寺がなぜ「善光寺」と呼ばれるのか、その答えは開創者である本多善光の名そのものにあります。寺院名の多くは山号や教理、地名から取られるのが一般的ですが、善光寺は「開祖の俗名(本多善光の『善光』)」をそのまま寺号として冠した極めて稀有な大寺院です。
寺伝『善光寺縁起』によると、本多善光は飛鳥時代の信濃国伊賀良庄(現在の長野県飯田市座光寺)に住んでいたとされる人物です。当時の信濃国司に従って都(難波・飛鳥地方)へ出仕した際、水底に沈んでいた仏像と奇跡的な邂逅を果たしました。この出会いを機に、一介の地方役人・有力者であった善光の人生は、日本仏教史に残る一大巨刹の開創へと大きく舵を切ることになります。
その後、善光が自宅へ持ち帰った仏像の霊験が都の朝廷にも届き、皇極天皇元年(642年)に現在の長野市へと遷座。皇極天皇3年(644年)には勅願によって壮大な伽藍が建立され、善光の功績を称えて「善光寺」の勅額が下賜されたと伝えられています。僧侶ではなく「在俗の在家信者」の名がそのまま大寺院の名称となり、無宗派の民衆信仰として発展した原点がここにあります。

難波の堀江から信濃国へ|阿弥陀如来像救出劇と開山伝説の全貌
善光寺開山の根幹を成すのが、ドラマチックな「難波の堀江からの如来救出」の伝承です。この物語は、古代日本における仏教受容期の激しい権力闘争と密接に結びついています。
用明天皇や欽明天皇の時代、百済の聖明王から献上された日本最古の阿弥陀如来像(一光三尊阿弥陀如来)を巡り、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が激しく対立しました。物部氏によって疫病の元凶とみなされた仏像は、火中に投じられたのち、難波の堀江(現在の大阪市西区・堀江周辺の水路)の底深くへと投げ捨てられてしまいます。
それから数十年が経過した推古天皇10年(602年)、都に滞在していた本多善光が難波の堀江のほとりを通りかかったとき、水面が突如として金色に輝き、「善光、善光」と自らの名を呼ぶ声が響き渡りました。善光が驚いて水中に飛び込むと、光り輝く阿弥陀如来像が現れ、善光の胸の中に飛び込んできたとされています。
如来から「そなたの故郷である信濃の地へ連れて行き、民衆を救え」という神託を受けた善光は、尊像を背負い、険しい木曽路や中山道を越えて故郷の信濃国伊賀良庄へと連れ帰りました。善光の屋敷の臼の上に安置された如来像は眩い光を放ち、周囲の村人たちを帰依させたと記録されています。
この開山劇には、善光の家族である妻・弥生御前(やよいごぜん)と息子・善佐(よしすけ)の存在が欠かせません。『善光寺縁起』によれば、あるとき息子の善佐が若くして急死してしまいます。深い悲しみに暮れる善光と弥生御前が阿弥陀如来に必死の祈りを捧げたところ、如来は善光を連れて地獄へと赴き、閻魔大王から善佐の命を救い出して現世に蘇生させたという劇的な蘇生奇跡が語り継がれています。
【データ比較】長野市「善光寺」と飯田市「元善光寺」の歴史・立地・信仰の構造
本多善光が最初に阿弥陀如来を祀った地である飯田市の「元善光寺」と、のちに勅願寺として遷座・発展した長野市の「善光寺」は、深い歴史的絆で結ばれています。両寺の成立経緯、規模、信仰上の位置づけを客観的データに基づいて比較・整理しました。
| 項目 | 長野市:信州善光寺 | 飯田市:元善光寺(座光寺) | 編集部の見解・評価 |
|---|---|---|---|
| 開創・遷座年代 | 皇極天皇元年(642年)遷座 皇極天皇3年(644年)伽藍建立 | 推古天皇10年(602年)奉安 善光公の屋敷に41年間安置 | 元善光寺が如来奉安の「初源の地」であり、長野善光寺は国家プロジェクトとしての発展形。 |
| 本尊 | 一光三尊阿弥陀如来 (完全非公開の絶対秘仏) | 一光三尊阿弥陀如来 (長野遷座時に善光自ら彫った木彫像) | 元善光寺には如来が長野へ旅立つ際に残したとされる「お身代わり仏」が鎮座している。 |
| 宗派体制 | 無宗派 (天台宗・大勧進/浄土宗・大本願が共同管理) | 天台宗 | 長野善光寺の無宗派体制は、あらゆる階層・宗派を包摂する民衆信仰の最高到達点。 |
| 年間参拝者数 | 約600万人〜700万人 (御開帳年は約1,000万人規模) | 約30万人〜50万人 | 知名度では長野が圧倒するが、古くから「両方参らねば片詣り」と伝えられ巡礼価値が高い。 |
| 境内主要史跡 | 国宝本堂、山門、経蔵、善光塚 | 本堂、本多善光公夫妻の墓、座光の臼 | 元善光寺境内には善光の屋敷跡や如来を載せた臼など、物語の原風景が濃密に残る。 |

一般に知られていない盲点と歴史の真相|伝説の裏にある古代豪族と渡来文化
『善光寺縁起』に描かれる善光の救出劇は極めて信仰的かつ神秘的ですが、歴史社会学や古代史の学術的視点から検証すると、背後にある当時の社会構造と政治的リアリズムが浮かび上がってきます。
まず最大の疑問点は、「飛鳥時代に『本多』という名字が存在したのか」という点です。日本の古代史において、庶民や地方豪族が苗字(名字)を名乗るようになったのは平安時代末期から鎌倉時代以降であり、7世紀初頭に「本多」姓を名乗っていたとは考えにくいのが定説です。中世以降に徳川家臣団などで有力となった本多氏の祖先伝承や、善光寺縁起を全国へ広めた「善光寺聖(ひじり)」たちの語りの中で、後世に「本多」という家名が付会されたと推測されています。
では、善光の実像はどのような人物だったのでしょうか。信濃国の伊那谷(飯田市周辺)は、古代において朝廷に馬を供給する一大牧場地帯であり、先端技術を持った渡来人集団(秦氏系など)や金刺氏・他田氏といった強力な在地豪族が割拠していました。難波津(大阪)と信濃を結ぶ官道や東山道のルート上を、馬や特産物を献上するために行き来していた交易リーダー、あるいは渡来系仏教文化を受容していた地方の有力豪族が、本多善光のモデルであった可能性が極めて高いと分析されています。
なぜ仏像は飯田から長野(水内郡・善光寺平)へと移されたのかという点についても、政治的背景が存在します。長野盆地は日本海側と太平洋側、さらには越後や関東を結ぶ北信濃の超重要交通結節点でした。国家的な仏教受容政策の中で、東国支配の拠点としてより広大な善光寺平へ寺院を移転・拡大させることが、大和王権と信濃豪族双方の利害に一致していたと考えられます。
【実態検証】現地調査で辿る本多善光の足跡|飯田・長野に残る墓所と伝承地
伝説上の人物とも思われがちな本多善光ですが、現地を歩くと、千数百年以上もの間、地域住民の手で守り継がれてきた生々しい痕跡を各地で確認することができます。
飯田市の元善光寺境内には、善光公と妻・弥生御前、息子・善佐の3人が眠るとされる「本多善光公御廟(墓所)」が静かに佇んでいます。本堂の裏手には如来像が光を放ったとされる「座光の臼」が安置されており、現在も地元・飯田市座光寺地区の住民にとって善光は地域を開拓した誇るべき先祖として崇敬を集めています。取材時にも、毎朝欠かさず墓前で手を合わせる高齢者の姿が見られ、単なる観光地ではない生活に根ざした信仰の息吹が感じられました。
一方、長野市の善光寺本堂から北西へ少し歩いた場所(花咲町周辺)にも、本多善光一族の墓と伝えられる「善光塚」が存在します。巨大な伽藍が立ち並ぶ長野善光寺の華やかさとは対照的に、住宅街の一角にひっそりと守られている善光塚は、知る人ぞ知るディープな聖地です。信濃の南端(飯田)と北端(長野)の双曲に善光の足跡が残されている事実こそ、善光寺信仰が点ではなく線として信濃全土を結んでいた動かぬ証拠といえます。

【プロの結論】仏教社会学と地域信仰から読み解く「無宗派寺院」の成功要因
【プロの結論】「在家開山」というルーツが善光寺を最強の包摂寺院にした
日本仏教史において、善光寺がなぜ宗派の壁を越え、身分や性別(女人禁制が当たり前だった時代における女人救済)を問わず万民を受け入れることができたのか。その最大の理由は、「開山した人物が戒律に縛られた出家僧ではなく、家庭を持った一介の在家信者(本多善光)」だった点にあります。
善光寺縁起の根底にあるのは、国家鎮護や難解な教理体系ではなく、「地獄に落ちた我が子を救いたい」「日々の生活の苦しみから救われたい」という、善光一家の極めて人間的で泥臭い家族愛の物語です。この親しみやすさと敷居の低さが、平安時代以降の貴族から鎌倉・室町時代の武士、そして江戸時代の庶民に至るまで、あらゆる階層を惹きつける強力な心理的推進力となりました。
【参拝ガイド】善光寺・元善光寺巡礼における「向いている人・注意すべき人」の判断基準
歴史と信仰を深く味わうために、巡礼の判断基準を整理しました。
- 深くおすすめできる人:
- 善光寺の起源や歴史的ルーツを根本から体感したい歴史ファン
- 「一度参らば極楽往生、両方参らねば片詣り」の故事に従い、長野と飯田の両善光寺を制覇して完璧な結縁を果たしたい人
- 古代の信濃豪族、渡来人ネットワーク、馬産街道の歴史ロマンに興味がある人
- 訪問時に注意・工夫が必要な人:
- 長野善光寺と飯田元善光寺を同日に回ろうと計画している人(長野市と飯田市は長野県内で約150km離れており、車でも高速道路を使って片道約2時間を要するため、1泊2日以上の行程が必須)
- 「本尊の仏像を直接肉眼で見たい」と考えている人(長野善光寺の本尊は数え年で7年に一度の御開帳時でも「前立本尊」のみの開帳であり、本多善光が救い出した絶対秘仏の本尊そのものは誰の目にも触れることはありません)
【本多善光】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:本多善光という人物は実在したのですか?それとも架空の人物ですか?
A1:完全な架空の人物ではなく、飛鳥時代に信濃国伊那地方に実在した有力豪族や交易の指導者がモデルであったと考えられています。ただし「本多」という名字や細かな奇跡譚は、平安時代末期から中世にかけて善光寺縁起が編纂・伝播される過程で後世に付加・脚色されたというのが近年の歴史学における有力な見解です。
Q2:善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」を本多善光が救出したのは本当ですか?
A2:物部氏によって仏像が難波の堀江に捨てられた記述は『日本書紀』にも崇仏論争の史実として見られます。その仏像を善光が引き揚げて信濃へ持ち帰ったという物語は『善光寺縁起』の寺伝によるものですが、百済からの伝来仏を信濃の豪族が受け入れ、中央の権力闘争から離れた東国の地で大切に守り抜いた歴史的実態を反映しているとされています。
Q3:なぜ「長野の善光寺」だけでなく「飯田の元善光寺」もお参りしたほうが良いのですか?
A3:本多善光が如来像を最初に持ち帰り、41年間祀った屋敷跡が飯田市の「元善光寺」だからです。長野へ如来が遷座する際、「毎月半ばは飯田の地へ帰り、人々を救おう」と誓約されたという伝説から、古くから「長野と飯田の両方を参詣しなければ片詣りになり、功徳が半分になる」と語り継がれています。
まとめ:1400年の時を超えて息づく本多善光の遺産
信州善光寺の起源に君臨する本多善光。難波の堀江から仏像を救い出し、家族とともに信仰を捧げたその足跡は、単なる宗教神話にとどまらず、古代東国における人々の祈りと流通、地域開拓のリアリズムを今に伝えています。
僧侶のエリート主義に染まることなく、庶民に寄り添う無宗派の寺として日本仏教の頂点に立ち続ける善光寺の魅力は、善光という一人の在家信徒の情熱から始まりました。長野の壮大な大伽藍を訪れる際も、飯田の静謐な元善光寺を訪れる際も、1400年前に仏像を背負って木曽路を歩いた本多善光の足音に思いを馳せることで、参拝の深みは何倍にも増すはずです。 (出典: 本 多 善光(Yahoo!ニュース))